青に沈む黒
その日の空は夏に相応しく快晴だった。
だけど今の私にはその天気は凶器だ。
月に一度、女として生まれることを後悔する日が来たからだ。
しかも今日はその二日目。
お腹の痛みも酷かった。
痛み止めの薬は切らしていてひたすら痛みに耐えるしかなかった。
下半身から押し寄せる気持ち悪い感覚に耐えながら私は朝刊を取りにポストまで向かった。
ポストがある場所に辿り着くとそこには快晴の青空に似合わない黒い雰囲気を漂わせる根暗男がポスト前で新聞を立ち読みしていた。
私の視線に気づいた彼は不機嫌な表情を浮かべていた。
この態度にも慣れたから気にすることなく朝刊をポストから取った。
そこから移動しようとすると声をかけられる。
「先月の家賃、まだ払われてないんですけど」
「いつものことじゃない」
「いつものことにしないでください」
「…わかってます、いつもすいません。なんとか溜まったから後で持っていきます」
彼にそう言って私は坂道を上がっていく。
背筋に寒気を感じたけれど私はそれに気づかないふりをした。
洗濯物を干し終わった後、彼の部屋に家賃を渡しに行く。
ノックすれば、彼はけだるそうにドアを開けた。
タンクトップにだぼだぼのズボンとラフな格好しているが、彼の場合はそんな格好していても休みかどうかわからない。
玄関までしか上げないあたり、仕事中だったようだ。
嫌味としてすら彼は私に仕事の話題をされることを嫌う。
彼は私から渡された袋を覗いて、ちゃんと全額あるか確認している。
「確かにお受け取りしました。でももうそろそろ今月の家賃収納期だな」
そう意地悪く笑って言われて、のっちゃいけないってわかっているのに頭にきて結局口が開いてしまう。
「わかってるわよ。でも私以外の人も結構滞納してるじゃない。なんで私ばっかり文句言われなきゃいけないの」
「社会人ってやつも楽じゃねぇんだよ。どっかのお嬢さんみたいに人の干渉している暇なんかないんだっつーの」
「……」
こっちの事情も知らないくせに。
私だってそれなりに苦労してるのよ。
そう言いたいけれどこの男の過去を知っている以上、何も言えない。
いや彼の過去を知らなくても言えなかった。
彼に会うまで私は確かに検事になることだけを夢見て、肝心な世の中の流れにちっとも目がいってなかったから。
「…店長に早めてもらうように頼んでみるわ」
私が彼を喜ばせることといえば、家賃を予定通りに収納することくらいだろう。
収納が遅れようが予定通りになろうが結局からかわれることに変わりはないけど。
「別に今まで通り、遅れてもいいぜ」
「…雨が降るわ」
「お前が予定通りにしたら俺のストレス解消がなくなる」
「…私に文句を言うのがあなたのストレス解消なの」
「ああ、そうだ。昨日はお前の友達が朝から部屋まで来やがってこっちは迷惑してんだよ。
友情が大事ならお前が責任取れ」
「…ゆかりに直接言えばいいじゃない」
「言ったって素直に聞かねぇんだよ。まぁ、どっかの誰かさんも一緒だけど。
ま、あっちは説教してこないだけまだマシか」
「……」
この男は私が何しようが結局文句言わなきゃ気がすまないのだ。
私の存在がどれだけ疎ましいのかひしひしと身に染みる。
願わくば今はこれ以上体に負担をかけないで欲しい。
腹痛がひどくなってきて、服の腹部部分を手で握る。
私の様子の異変に気づいた彼が怪訝な表情を浮かべる。
「…吉田?」
倒れるなら自分の部屋にしなきゃ。
ここで倒れたらまた何か言われる。
なのに体は言うことを聞いてくれなくて。
「…っ!」
足元を崩すと彼が倒れてきた私の体を反射的に受け止める。
彼が息を呑む声が聞こえた。
それからため息をついた音が聞こえて、急に体が軽くなった。
視界がぼやけながらも色を取り戻した頃、私の目の前に彼の顔があった。
「……ったく、仕方ねぇな」
自分の体が思うように動かなくなっている。
彼に体を抱えられていたからだ。
頬を赤くしながら私は降ろすように促すため、腕を動かそうと試みたが肩をしっかり掴まれていて出来なかった。
「ちょっと、離しなさいよ!」
「あー、耳元できゃんきゃんとわめかないでくれるか?…ったく、ほんと女っていうのはめんどくさい体だな」
「…っ!」
私自体が面倒だと彼は言わず、体のことを言ってきたあたり、もしかしたら私が生理中だということに気づいたのだろうか。
「ちなみに玄関、もう汚れてるんですけど。あーあ…殺人現場とか思われたらどうしてくれんの」
彼に言われて床の方へと視線を下ろすと、赤い円がばらばらと床に散らばって染み込んでいた。
「…ごめんなさい」
「……うわ、素直に謝るなんて…こりゃ明日は雨だな」
「なっ…あなたが親切する方がよっぽど雨よ!」
「俺ほど優しい大家もいないと思うけどな」
そう言い争いながら私は室内に入れられた。
体が降ろされた場所は風呂場だった。
「どうせ腹が痛いとかいう理由で風呂入ってねぇんだろ。服も汚れちまってるし…ついでだから洗っていけよ」
「…本当になんなのよ…」
「意外と臭うもんなんだよな、あれ……お前の部屋からナプキン取ってくる」
黒崎は頭をがしがしとかきながら、風呂場から出た。
そういえば、腹痛がひどくなったときに独特な鉄臭い臭いが鼻に入ったような気がする。
もうあの地点で下半身から血は垂れて玄関を汚していたのだろうか。
とりあえず彼の言葉に甘えて、私は体をシャワーで洗うことにした。
そのために服を脱ぎ始めたのだが、下着などは服の間に挟んで彼に見られないようにした。
シャワーからくるほどよい熱が腹痛の痛みを和らげてくれる。
下半身に溜まり込んだ滑りの塊もあまり感じない。
あまり長く浴びるのも悪い、と思い、五分くらいで済ませた。
体を洗い終えた後に扉を開くと、ちょうど彼が洗面所に入って来たところだった。
私は慌てて風呂場に戻り、ドアから顔だけ覗かせるようにした。
そんな私の様子を見て、彼はくすりと笑った。
「…あんまり意味ねぇと思うけどな。ま、いいけど。着替えと、あとナプキン、ここに置いておくぞ」
彼は脱衣用のカゴから私の着ていた服を取って、手に持っていた服とナプキンをそこに置いた。
除いた服は洗濯機の中に入れた。
「服はわかんねぇから、俺の服にしといた。…にしても、吉田さんって意外と大胆な下着穿いてんだね」
彼はにやにやと笑いながら、カゴの中から黒いレースの下着を手に取って私に見せた。
それを見た私の頬は真っ赤になる。
「なっ…!服はわかんないのに下着はなんでわかるの!?」
「下着っていうのは大抵洗面所の棚に置いてあるもんだろ。てか下着なしでどうやってつけんだよ」
「…そ、それもそうだけど…」
「これ以上文句言うと、俺がお前の体拭くぞ」
そう彼が言って手にしていたのはタオルだった。
この男なら有言実行するに違いないと確信した私は言葉の続きを言うことをやめた。
私が引き下がったことを確認した彼はタオルをカゴの服の上に置いて洗面所から出て行った。
彼が出て行った後、私は改めて風呂場から出て、カゴの中のタオルを手に取った。
濡れた体をある程度それで拭いた後、下着をつけた。
もちろん持ってきてもらったナプキンもつけた。
用意された彼の服はゴム紐の短パンとタンクトップだった。
それを着てみると、私の体には大きかった。
彼は男にしては細身な方ではあると思うけれどこうして彼の服を着て大きさを確認すると、やっぱり彼と私の体格の大きさには差があるんだなと思った。
洗面所から出てから居間に入ると新聞や仕事の資料でその部屋は埋め尽くされていて、足の踏み場がなかった。
その場所に彼はいなかった。
こんなあっさりと将来敵になるかもしれない職業を目指す自分に無防備でいていいものだろうか。
私は資料からなるべく目をそらしながら唯一散らかっていないベッドへと足を進ませた。
ベッドに腰を下ろすと、眠気が急に襲ってくる。
腹痛が酷かったため、寝不足だったことを思い出した。
横になりたいけれどこのベッドは自分のではないし、それに戻って来た彼に何をされるかわからない。
彼が見返りを求めずに優しくするはずがないのだ。
それは自分に限ったことじゃない。
「……」
そう、二か月前の家賃滞納を許す代わりにとキスされたことがあった。
しかもそのキスっていうのは私にとって初めてのもので。
私は彼に好意を持っていたから嬉しかったといえば嬉しかったかもしれない。
でも素直に喜べないのは彼が私の気持ちを知っている上で、からかうつもりでそれをしたことからだ。
「…あいつに雰囲気求めるのは間違ってるわね…」
はあ、と私はため息をついた。
そのとき、ドアが開く音が聞こえた。
彼が帰って来たようだ。
居間に入ってくるなり、ベッドに座っている私を彼は見た。
「なんか誘っているみたいだな」
「……誘ってない」
「つまんねぇな、近所迷惑なくらい怒るかと思った」
「…そんな気力ないもの。どうせ何もしないだろうから、だって今日のあなた不気味なくらい優しいんだもの」
「その見返りを今、求めてるって言ったら?」
彼がベッドのところまで歩き進み、私の前に立つ。
そしてゆっくりと私の体を押し倒して、顔を近づけてくる。
「……俺のことならわかるって態度やめてくれる?」
「わかるわけないじゃない。あなただって私のことならわかるって態度やめてよ」
「ばーか、お前みたいな奴は俺じゃなくてもわかるってんだよ」
そう彼は憎たらしい笑みを浮かべて私の肩に自分の額で触れた。
「…夏バテだよ」
「え?」
思いのほか、彼が優しい声音で呟くから戸惑ってしまう。
「…夏バテで頭が少しイカれてるからお前に無条件で優しくしてしまうだけだ」
「そうね、そうじゃなきゃ嫌かも」
「……復活したら即効で襲ってやる」
「…襲えるものなら襲いなさいよ、ヘタ崎」
「…マジで犯す」
そう彼は言ったっきり何も言わなくなった。
代わりに聞こえたのが寝息だった。
胸に何か重みが掛っていると思えば彼の手が上に置いてあった。
その手は心臓に近くて、まるで私がそこにいることを確認しているようだった。
私はカーテンの隙間から見えた窓の外に映る空を見た。
「……暑いわね」
その熱が外の暑さなのか、自分の上に乗っかっている男の体の体温に対してなのか。
おそらくはどちらとも取れるだろう。
気づけば、彼の愛猫が彼の背中の上で丸くなって寝ていた。
それを見た私はその一人と一匹が兄弟に見えて微笑ましいと思いながら、目を閉じた。