夜露に濡れた仔猫(黒氷)

雨が急に降り出した。
傘を持っていなかった私はアパートの部屋まで駆け出す。

ポストに目をくれず一目散に階段を上がると一匹の黒猫が部屋の前にいた。
猫は私の存在を見つけると寄ってきた。私も猫を抱え上げる。

「クロちゃん、お散歩に行ってたの?」

クロちゃんは返事として、にゃあ、と鳴いた。

毛を軽く撫でてみると少し湿っていた。どうやらほぼ同時にアパートに帰ったようだ。

飼い主の部屋の中は真っ暗だったから留守なようだ。
仕事の関係上、元からあまり明るくないけれど。

「ふふ、部屋入ろうか」

部屋の鍵を開けて中に入ろうとすると急に体が重くなった。
それは飼い主が背後から私に体重を掛けてきたせいだった。

「人の猫、勝手に誘拐すんじゃねぇよ」
「ち、違うわよ…黒崎。あなた、仕事じゃなかったの?」
「早く終わったんだよ。で、返せ」
「…嫌よ。ちゃんと拭かないと」
「濡れてるのはお互い様じゃねぇか」
「そうだけど…」
「………」

黒崎は急に考え込んだ。
彼がこうやって考え込む時は大抵嫌な予感がする。
ほら、背中が異様なくらい寒くなってきた。

「…てっとり早く暖まる方法があるぜ?」
「…クロちゃんは?」
「たいして濡れてないから大丈夫だろ。それより吉田、早く中に入らないと風邪ひくぜ?」
「…う…」

都合の良いときだけ甘えてくるこの飼い主は飼い主というよりもう同種なんじゃないかと思う。

私は溜め息をついて、改めて部屋の鍵を開けた。

+

怖がらないで、甘えてごらん(彰信)

「ねぇ、野ブタ」
「……」
「ねぇ、野ブタ〜…こっち向いてよ〜」
「……」


話しかけてくる彰の声は私の耳に確かに届いている。
だけど今の私は彼の声に答える余裕はない。


『……たまにはお前から行動起こしてみたらどうだ?』

修二からもらったアドバイスから必死に考える。
でも、私からの行動?


「…野ブタ!?」
「………」


とりあえず思いっきり彼に抱きついてみることにした。


+

放っておけない(黒氷)

いなくなって欲しいのに。

嫌いになって欲しいのに。

どうして俺はこいつの手をとっているんだろう。


「…黒崎?」
「………」


無防備に俺を見上げるその目に立ちくらみを感じた。


「…しょうがねぇな」
「何が?」
「こっちの話」
「…?…って離してよ!」
「やだね」


離したらどこに行くかわからないのはお互い様だろ?


+

躊躇いは捨てろ(修信)

手を伸ばせばその小さな手に届きそうだ。

だが心の中で何かが引っ掛かって手を止める。


自称“親友”と語る男(自称ではなくなってきた気がする)が彼女を好きだから?

あくまでもプロデューサーだから?


どこに遠慮する必要がある。

ああ、そうだ。俺は彼女が好きだ。


だから震えているんだ。

偽りだらけで生きた俺の手が偽りなき綺麗なものに触れていいものだろうか、と。


「修二?」


俺の手の震えなんて彼女は知らないまま、低く優しい声で俺の名を呼ぶ。


大丈夫だ。


きっと彼女なら受け止めてくれる―


そう信じた俺は彼女の手を取った。


+

いつでも近くにいるよ(黒氷)

「…あ」
「よう、ビンボー」
「………」

仕事帰りなのだろうか。
また…と口に出しそうになるが、また口喧嘩しそうになる。

干渉しなければ、彼の側にいることが出来る。

だから何も言わないでおこう。
だって私はまだスタートラインにすら立っていない。


干渉しなかったのに彼は私の隣にまだ立っていた。

どうして?
干渉しなければ側に居てもいいって言ったのはあなたなのに。


「…何?」
「…挨拶無視はいかがかと思うけど?」
「…余計なこと、言いそうだからやめただけ…」
「へぇ、お前にしては賢明な判断」
「…わかってるなら部屋に戻ればいいでしょ」


泣きたくない。泣いたって責められるだけだ。
何したってこの男にとっては私の存在自体が疎ましいものなのだから。

なのに。

この男は離れない。


「…泣くのか泣かないのかわかんねぇ顔してんな、吉田」
「…いいから、行ってよ」

それでも男は動かない。
なら簡単なことだ。私が動けばいい。

「………」

一歩進んだ途端、腕を取られた。
どうして。どうして。

「離して、よ…」
「やだ」

男は離すどころか距離を縮めてくる。

「………」

私はあきらめて男の方を振り向いた。

私が振り向いた途端、穏やかな表情を浮かべた男がいた。