1.それは誰に触れた唇ですか

「おはよ…っ…」

朝に顔を会わせるなり智は私の唇を念入りにタオルで拭く。
そう言えば翔と事故でキスしてしまった後も念入りにタオルで拭かれた。

「別に誰からもキスされてないよ」
「あのな、寝込み襲われてるかもしれないだろ」
「大丈夫だよ、鍵掛けてるし」
「二重か三重にしてるか?仮にもここにいる連中は俺含めて大蔵から育てられてんだから」
「はいはい、二重にしてますよ」
「よし」

つい最近まで引きこもりだった彼は意外と私の父親よりよっぽど父親らしくなった。
それを優に言ったら本人には言わない方がいいと言われた。
やっぱり年頃だもの。
男の子に見られたいものね。

私が去った後に呟かれた智の独り言を私は聞くはずもなかった。


「…何が二重だっての。一つじゃねぇか」


2.三十分間のタイムラグ

「三十分。三十分だけ待ってやるから」

こんなにもどきどきしたのは初めてだ。
つい先日まで家族だったのに。
いつの間にかこんなに意識してしまうようになってしまったのだろう。

家族だから当たり前のように入り込んだ彼の部屋も今は入ることすら躊躇う。
中に入ったら尚更緊張し過ぎて動けない。

こんなときはちょっと彼の方が大人になって私を待ってくれるのだ。

ああ、失敗しないだろうか。
がっかりしないだろうか。

そんなあれこれ考えていたら気づけば彼が部屋の中に入っていた。

「…あの、自信ないけど…よろしく」
「よ、よろしく…」

ああ、そうか。
彼も私と同じこと考えていたんだ。
きっと彼もそう感じているのだ。

それを理解した私たちは笑いあったのだった。

3.あなたが見えない

あいつが金目当てで家に?
どうも簡単には信じられなかった。

だけど借金があることは事実なわけであるし。
あいつもそれを認めた。

じゃあ、俺を外に出してくれたのも全て金のため?

あいつがそんな器用な奴には正直思えなかった。

あの笑顔が作り物だなんて思いたくない。

俺は真実をあいつに見せた。
なら。

今度はあいつが真実を見せてくれる番だろう。


4.濁った硝子の向こう

「…なんで俺が」
「仕方ないじゃない。今、家には智しかいないんだもの」

…そういや俺以外は外に出て何かしらしていたんだった。
あんな所に今更通おうとは思わないけれど。
それに二人っきりというのは中々良い響きだ。

窓を二人で拭いているときだった。
千里は中から、俺は外からそれぞれ拭いていた。
ふと中から話し声が聞こえる。
誰か帰って来たらしい。

楽しそうな笑い声が聞こえる。
生憎窓は曇っていて中は見えなかった。
ただ声だけが聞こえる。

それだけで胸は張り裂けそうだった。
早く堂々と嫉妬出来る関係になれたらいいのに。

「…くそ」

今はまだ踏み出せる勇気がない自分に腹立つことしか出来なかった。


5.足元は泥濘に消えゆく

一歩進んだら何もかも変わる。

聞きたい。
聞きたくない。

ねぇ、どこに行っていたの。
ねぇ、誰と話していたの。

―ねぇ、俺以外を見ないで。

「智?」
「頼む、こっち見ないでくれ」

―早くお前も墜ちてくれればいいのに。